おととい、また現役の熊西生からコメントをいただいた(こちら)。理数科の後輩にあたる方だ。ありがとうございました。

さて、そのコメントの趣旨は「熊西がひどいのは分かるけど、退学したり転校したりする勇気はない」というものだった。私はしばしば通信制がいいと書いているが、それはどうも躊躇してしまうというのだ。

実はこれと同じ意見は以前にも現役熊西生からいただいたことがある。そこで、今回はその問題を考えてみたい。退学はしないまでも、次善の策を。二つ前の記事では実用的な観点から高校の過ごし方を考えたが、今回の記事は学校との付き合い方と精神的なスタンスにまつわる話だ。

現役高校生にとって退学はハードルが高い

校舎もほとんど変わっていないが……

現役の高校生にとって学校を退学して他の道を模索することはまだまだハードルが高いらしい。親もかなり強硬に反対するようだ。私が高校生のときからもう20年が経過し、世の中も変わっているのでそのあたりの価値観も変わったと思っていたのだが、そうでもないようだ。

考えてみると、今の高校生の親世代はおおむね40代だ。就職氷河期世代(ロスジェネ)である。となると、まだまだ保守的な考え方が根強いのかもしれない。

そんな親や教師が相手となると、退学・転校はたしかにハードルが高い。最初からそこを目標に動くと周囲との摩擦で消耗してしまい、メンタルをやられる危険性もある。これは得策ではない。

そこで、学校を辞めずに今すぐできることとして、現役の高校生におすすめしたいことがある。それが、「イレギュラーな動きをする」ということだ。

「イレギュラーな動き」とは何か?

これはつまり、親や教師の想定通りに動かない、ということである。忖度を止める、行儀よく振る舞うのを止める、と言い換えてもいい。

不良になれ、というわけではない。闇雲に反抗しても意味がない。そうではなく、おかしいことにはおかしいと言うことだ。理屈が通らないことに従わないことだ。あくまで自分の中に「正しさ」を持って、おかしなものにぶつかって行くのである。

現在、学校というシステムは欺瞞で満ちている。矛盾だらけだ。だから、正しくあろうとすれば確実に親や教師と衝突する。そのときに手を緩めないことである。おかしいと思ったらそれを貫く勇気を持とう。

その上で、生徒という立場なら多少の反抗も許される。ルール違反もある程度は許容される。この緩さを利用して、家庭と学校に揺さぶりをかけてみるといい。挑発してみるといい。そんな行動の中できっと見えてくるものがある。

なぜ揺さぶることが重要なのか?

油断するとシステムに自由を奪われる

なぜ従順であるのがダメで、わざわざ家庭や学校を揺さぶることが大切なのか? それは、家庭とか学校といったものがすでに終わったはずのシステムを保持しているからだ。もう時代に合っておらず、さまざまな矛盾を抱えている。それに全面的に適応しないために、こちらから積極的に揺さぶりをかけてやる必要があるのだ。

端的に言って、今の学校に適応すると社会に出てから苦労する。人生を台無しにされる危険性も高い。それを未然に防ぐために、「適応を拒否する」という姿勢が必要なのだ。

もし熊谷西高校のような学校に適応してしまったら、次は大学に適応し、就職活動に巻き込まれ、やがて会社組織というものに取り込まれてしまうだろう。そのとき、あなたの心にもう自由はない。会社というシステムの言いなりだ。自分の中の正義を貫くことも、自分の考えで人生を決定することもできなくなっている。

そんな状態になった典型的な例が森友学園問題で自殺した赤木俊夫氏(当時54歳)ではないだろうか。彼は財務省の文書改竄をやらされ、断ることができなかった。「こんなことをやるくらいなら辞職する!」と、拒絶することもできなかった。家庭を持ち、職場に組み込まれることで、自由を失ってしまったのだ。もちろん、この事件に関して悪いのは財務省本省でありさらには政治家だが、「イレギュラーな動き」をする勇気があれば、命を失うことまではなかっただろう。

人間は知らず知らずのうちに大きなシステムに組み込まれてしまうものだ。不合理であっても「会社の仕事だから仕方ない」とか「家族がいるから理不尽なことでもやらないと」とか「定年まではがまんだ」という精神構造になってしまう。そして、それはもう高校生の段階から始まっている。

「学校の校則だから仕方ない」
「親に養ってもらってるから文句は言えない」
「受験が終わるまではがまんだ」

そんなふうにつぶやくとき、あなたはもう不合理なシステムに半分取り込まれてしまっているのだ。

具体的な「揺さぶり」の案

ではどんな揺さぶりがありうるのか。いくつか考えてみた。

遅刻・欠席をする

まだ始業前に毎日登校しているという人は遅刻・欠席をしてみよう。いきなりただのルール違反のような気もするが、学校というものを相対化していくにはまずここからが手っ取り早い。

あまり休みすぎると留年してしまうが(留年してみるのもいいと思うが)、ぎりぎりの単位を見極めて欠席してみるというのもいいだろう。普通に過ごしていると学校が単位制だということにすら気づかないが、しっかり調べて休めるだけ休む。そういう姿勢を身につけるといい。

旅行を理由に学校を休む

旅行か趣味の用事で学校を休んでみよう。そのとき、理由を正直に言うことだ。学校はどんな反応をするだろうか。もしかしたら、「そんな理由では休めない」と言うかもしれない。

しかし、社会人が有給休暇を使って自分の裁量で休めるのに、高校生にそれがないのは不合理である。個人の都合で休んでもいいはずだ。その理屈を貫いてみよう。

私は高校3年生のときに太宰治の墓参りにいくため、学校を早退したことがあった。そのときは体調不良だと嘘を言ってしまった記憶がある。それでは意味がない。

不登校になって代替手段を使う

不登校になって、普通でない学生生活を送ってみるのは非常にいい経験になると思う。実は学校に通わずとも、教育支援センターだったりフリースクールだったり、他の代替手段はいろいろと用意されているのだ。

熊西に通うだけでは何の経験にもならない。が、他の代替案をみずから調べていろいろと利用してみると、これはかなり重要な経験になる。将来の財産にもなりうる。

YouTubeやブログで情報発信する

熊谷西高校の生徒であることを明かしてYouTubeやブログをやる。これもよい揺さぶりになる。なぜだか学校組織はSNSでの発信を嫌がるものだが、禁止する根拠は何もないはずだ。もし見かけたら、教師によるセクハラやいじめ、学校の不正などを告発していくとおもしろいことになるだろう。

ちなみにもし私が公務員で上司から文書改竄などやらされようものなら、すぐに仕事をやめてその事実を洗いざらいYouTubeでしゃべっていただろう。

追記:そういえば私は熊谷西高校で履修漏れの被害に遭った。日本史の代わりに地理をやり、それで日本史をやったことにされたのだ。が、いまだに謝罪もなければその分の授業料の返却も受けていない。こういう「なあなあ」で済まされている不正もいちいち指摘していくべきだろう。

質問しまくる

学校の運営や規則、その他諸々、変だと思ったところはとことん質問しまくるといい。

たとえばこの記事の後半で私は熊西の「進路状況」の書き方がおかしいと書いた。だれがどう見てもおかしいだろう。この点について、「なぜ合格した大学でなく実際の進学先を書かないのですか」と尋ねてみるといい。しかも、納得できる答えが返ってくるまで問うのをやめないことだ。

教師が質問をはぐらかしたら、事務や教育委員会など、他の窓口を利用するという手もある。

小まとめ

思ったほど揺さぶりの種類が出てこなかった。だが、シンプルに「質問しまくる」というのが最善かもしれない。これがもっとも精神の健康を保つのにいいだろう。

あまりしつこいと親や教師はその権力を傘にきて「養われてる分際で偉そうなことを言うな」とか「大学に合格してから言え」などと言うかもしれない。しかしそんなハラスメントにも屈してはいけない。

システムの奴隷になるな! マイケル・ジャクソンの「Jam」の思想

今回書いた「イレギュラーな動き」のすすめ、「揺さぶり」のすすめは私のオリジナルの考え方ではない。実はすでに1991年に “KING OF POP” マイケル・ジャクソンが歌っているものだ。それが「Jam」という曲である。

Jamという英単語にはいろいろな意味がある。

詰め込む。無理に押し込む。電話回線をパンクさせる。押し潰す。動かなくする。妨害する。etc.

いずれにせよ、「スムーズに動いていたものの動きを妨害する」というのが「Jam」の根本の意味だ。「traffic jam」と言えば「交通渋滞」の意味だが、これなどはその意味が分かりやすい。あるいは拳銃が弾詰まりすることを「ジャムる」と言う。これも本来の機能が阻害される現象だ。

マイケル・ジャクソンは「Jamしろ」と言う。何をJamするのか? それは、私たちの「正常さ」を狂わせている巨大なシステムだ。

古くて有害なシステム。それは今日の日本で言えば学校である。学校が人間の正常さを失わせている。

あるいは、昔で言えばナチズムや共産主義・社会主義である。いずれも世界全体を混乱と悲しみに陥れた巨大なシステムだ。たとえばウクライナの隣に位置するルーマニアという国は第二次世界大戦のあいだは枢軸国として英米の激しい攻撃を受けた。虐殺もあった。その後、今度はチャウシェスクの社会主義独裁体制によって抑圧された。

1989年、ルーマニア革命でチャウシェスクは大統領の座を追われ、処刑された。そうして、民主主義が実現された。そのすぐ3年後に、首都ブカレストでマイケル・ジャクソンのライブが開催されたのだが、その一曲目が「Jam」だった。

映像で見るだけでも観客の熱狂が伝わってくる。現代ではありえないような、本物の熱狂だ。映像を見ていくと、ライブ中、次々に気を失った女性が運び出されていく様子が映される。それほどマイケルの登場は衝撃だったのだろう。

繰り返すが、そんなブカレストでのライブの一曲目が「Jam」だったのだ。

ここで、最初のPVを思い出してほしい。

その映像の冒頭では地球のようなボールが窓から放り投げられる。屋外に広がっているのは荒れた地面や大量に捨てられたタイヤだ。あたりは非常に荒廃している。

そんな中、マイケルが登場する。彼がダンスするのはとある建物の中だ。ガランとした広い空間で、埃っぽい。おそらくは元工場だろう。しかし、今は廃墟になっている。そこでマイケルはダンスを踊る。

この廃墟のような建物が古いシステムであり、私には、今の日本の学校のように見える。

さらにそこにもう一人の ”MJ” マイケル・ジョーダンが現れる。二人はダンスとバスケを教え合う。異質なもの同士のセッションだ。さらにはその様子を見てさっきまで覇気のなかった子供たちが集まり、皆でダンスを踊ったりバスケをしたりする。廃墟のようなその場所に活気が戻ってくる。

曲の後半、くどいほどにサビが繰り返される。

Jam
It ain’t too much stuff
It ain’t
Don’t you
It ain’t too much for me to jam

Jamしろ
そんなのたいしたことじゃねぇよ
たいしたことじゃないんだ
やろうぜ
たいしたことないから、俺はJamするぜ

https://genius.com/Michael-jackson-jam-lyrics

このくどいくらいの繰り返し、しつこさがキーだ。しつこくなければいけないのだ。そうしてこそようやく「Jam」は成功する。

曲の後半、子供たちは元気を取り戻し、地球は救われるのである。

参考:安冨歩『マイケル・ジャクソンの思想』

「Jam」は終わらない

大きなシステムに対してイレギュラーな動きをすること、いっそそのシステムを揺さぶること、あるいは「Jam」すること。今回は現役高校生からのコメントを受け、その重要さについて書いてみた。

大事なのはシステムのいいように支配されないことだ。飼い慣らされるのを拒否することだ。熊谷西高校は廃墟のような場所だが、「Jam」し続ければ自分の正常さを保つことはできるだろう。

さらに言えば、「Jam」はずっと終わらない。抑圧的なシステムが私たちの邪魔をする限り、それに対して「Jam」し続ける必要がある。

もちろんこのブログを書くことも、私にとってのささやかな「Jam」である。