2021年、春。新型コロナの流行から一年が経つ中で、今年も熊谷西高校は新入生を迎えた。倍率は1.12倍、新入生の数は240人ほどらしい。

さて、しかし、このタイミングで熊西に入学した生徒に果たして未来はあるだろうか? もちろん、熊西に批判的な私としては、答えはノーである。残念ながら、彼らに明るい未来は待っていない。

結論は出ているのだが、その理由について少し詳しく考えてみよう。コロナ禍における教育や生き方のヒントを探れるかもしれない。

熊西の新入生が犯した過ち

いま現在、熊谷西高校に進学することはシンプルに間違いである。判断ミスと言わざるを得ない。では、その何がおかしいのか? 理由を3つに分けて考えてみよう。

1)コロナ禍において全日制を選択

これは、いわゆる「普通の高校」、つまり平日日中に通学する全日制の高校すべてに該当することだが、この通学形態の学校を選ぶこと自体がナンセンスだ。

すでにコロナ禍において以前のような学校生活を送ることは困難になっている。通学はできても、さまざまな制約を被るだろう。しかも、コロナはまだ終わったわけではなく、むしろこれから猛威を振るう可能性だってあるのだ。

そんな中で学びの形態としてふさわしいのは全日制ではなく通信制だろう。将来の働き方を見据えたときにも、「教室に通う」よりも「通信で学ぶ」ことに適応した方が有利なのは言うまでもない。

今からまるまる3年間ぐらいはコロナと無関係でいることはできなさそうだ。そんな中、去年までと同様に全日制高校を選ぶということ自体が誤りである。

2)当ブログの情報を活用できていない

当ブログでは熊谷西高校がいかに教育機関としてオワコンであるかをかなり詳細に書いてきた。

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平均すると熊西関連の記事には1日20PVほどがあるので、半年間なら3,600PVである。また、「熊谷西高校 進学実績」というキーワードではGoogle検索の2位から4位あたりに表示される。つまり、熊西については少し調べればすぐにこのブログにたどり着けるのだ。

にも関わらず熊西に進学するということは、生徒自身と保護者がよっぽどインターネットに疎いか、もしくは記事を読んでもその意味を十分に理解できていないかのどちらかである。いずれにせよ、リテラシーがきわめて低い。

今後、情報化社会で最重要となるのはリテラシーである。すなわち、情報収集能力とそれを読み解き活用する能力である。これが欠落していることは大きなディスアドバンテージだ。

3)有益な学びの機会を逃している

今日、学びの場として学校はその重要度を急速に失っている。東大のような超一流の大学でさえ、もはやかつてのような存在意義はないとまで言われている。

というのも、今はインターネットを使えばたいていの情報は手に入るからだ。YouTubeだけに限っても、かつてでは考えられないほど多くのことが学べる。Amazonを使えばほとんどどんな本でも教材でも買えるし、月額1,000円程度のサブスクで全教科の授業を受けられ、プログラミングでもビジネスでも学べる。

そんな中で熊谷西高校に入学し、そこに3年間通うことにどんな意味があるのか? はっきり言えば、何もない。他にいくらでも有益な学びのチャンスがあるのに、それらに背を向け、時間を無駄にするだけだ。

熊西は没落し続けるべきである

以上のように、2021年に熊西へ進学することには百害あって一利もない。これは少し考えれば分かることである。にもかかわらず入学してしまった生徒たちは、残念ながら、時代に取り残されていくだろう。田舎の古い校舎の中で、社会のことを知らない教師たちと往年の青春ごっこのようなことをしながら、可能性と能力を摩耗させていくのだろう。

では、熊西が改革されるべきかというと、実はそうは思わない。むしろ、このまま没落を続けるべきだと思う。

熊西はホームページで「いつか熊西からノーベル賞を」と書いていたり、お役所的な言葉ばかりを並べ立てていたりと、すでに組織として化石のようになっている。イノベーションを起こすような人材を排出する気はまるでないらしい。ひたすら、20世紀型の教育を続けている。

だが、一方で社会は動いている。教育を受けるにしても、現在ではさまざまな選択肢がある。興味とやる気さえあればほとんどの情報にアクセスできるし、たいていの人物には会いに行ける。学びの可能性自体は広がっているのだ。

そんな中で旧態依然たる熊西が残っていると、これは観察対象としてはむしろ興味深い。20世紀的な、20年も30年も変わらない組織がいずれどうなっていくのか、サンプルとしては使えるかもしれない。

それゆえ、熊西はもはや変わる必要がないのだ。

熊谷西高校とは何なのか?

当ブログでは出身高校である熊西を批判し続けているが、その批判自体は実は熊西という個別の学校に限定されるものではない。そのほとんどは、「公立のそこそこの進学校」一般に当てはまる。引いては、古い体質を温存している組織一般にも当てはまる。熊西はそういった組織の典型例であり、私にとってその手近なサンプルなのである。

端的に言って、そういった公立校はすでに時代の役目をとうに終えているのだ。私が在学していた2000年時点でも、すでに時代遅れになっていた。あれから20年、公立の全日制高校というのはもはや、本質的にはただの廃墟に等しい。

それらの学校は生徒たちに本質的な教育をすることはもはやできない。ただ、存続することだけが自己目的となってしまった組織体である。教師も生徒も、もはやそこに数年間とどまる「詰め物」のような存在に過ぎないのだ。

熊西はいま現在、何もミッション(使命)を負っていない。理念もない。かつて作られ、潰されるきっかけがないから、まだそこに存続しているだけだ。そうして、存続することが自己目的になってしまっている。

実際、熊西の進学実績は、私の知る限りでも、20年間あがっていない。この間、これといった変化・改革も起こっていない。何の変化もない。ここから導き出されるのは、表面上どう言い繕おうと、熊西という学校がただ現状維持だけを志向している形骸化した組織であるという事実である。

おわりに

熊谷西高校に入学したり、卒業したりすると、地域の人からは褒められる。すでに30代の私でさえ、「熊西を卒業した」というと「賢いんですね」と言われることがあるほどだ。

しかし、このような地域での評価が誤解の元である。

そのような評価が埼玉県の一部でしか通用しないのはもちろん、熊西で学んだことで将来に生きることは何もない。地域でのちょっとした評価。熊西で得られるのはただそれ一つだけなのだ。その代償として、今の在校生たちはあまりに多くのものを失うことになる。