東京都の高校が私立も含めて全面無償化されるとのニュースが流れ、また少し高校のことが議論になっている。そんな中、堀江貴文氏のこんな動画が投稿された。

普通科の高校、今行っても何のつぶしも効きません。

引用:https://www.youtube.com/watch?v=bkFuGd828sU

よければ動画本編を見てほしい。

つまり、今どき全日制普通科のいわゆる「普通の高校」に行っても何の意味もない、ということだ。まして、そこに税金を投入するのは愚策である、という主張である。

私は堀江氏とそれほど意見が合うわけではないが、この主張には全面的に賛成だ。無償化の件は別としても、現在の一般的な高校に存在価値があるとは思えない。

しかし、そうだとするとなぜまだ普通科の高校が世の中で多数を占めるのか。むしろ、ここが疑問になってくる。そこで考えてみると、ひとつの事実に思い至った。

現在の高校を支えているのは団塊ジュニア世代の古い価値観

その事実とは、現在の高校生の親世代は団塊ジュニア世代であるということだ。

15~18歳の高校生の親といえば40代後半がメインの層である。この世代は戦後のベビーブームで発生した団塊の世代の、そのまた子供の世代にあたる。つまり、団塊ジュニアである。就職難に見舞われた氷河期世代、またはロスジェネとも言われ、たびたび社会問題として取り上げられている。

つまり、今の高校生は団塊ジュニアジュニアであり、いわば団塊の孫世代にあたる。

さて問題は、団塊ジュニアの40代後半前後の世代がかなり古い価値観を引きずっているということだ。

私、清水はいま30代後半なのだが、その私から見ても少し上の団塊ジュニア世代とのあいだには大きな断絶を感じる。高校生から見ればさほどの違いはなさそうに見えるだろうが、物事の考え方や価値観においてかなりのジェネレーションギャップがあるのだ。

たとえば団塊ジュニアはまだ「正社員として就職して結婚して子供を持つのが幸せ」という昭和的価値観を引きずっている。ここから逃れられていない。それを実現できていなかったとしても、そう「あるべき」という価値観・考え方は残っているので、そうなれないギャップとの間で引き裂かれている。

これは、彼らの親世代、団塊世代がそうした価値観で生きて、幸福を実現してきたからだろう。たしかに団塊世代はそのような価値観で高度成長時代を生き、成功してきた。団塊ジュニアも、ある時期まではその恩恵を受けてきた。そのため、その価値観を否定することが難しくなっている。

すると必然的に、自分の子供を育てるにあたっても、同様の考え方をあてはめてしまう。大企業や公務員といった安定した仕事に就くことを見越して、いい大学、いい高校へ行かせようとしてしまうのだ。周囲の同世代には競争に敗れていまだに非正規雇用という人間も多いため、余計に「そうならないように」という考えが加速させられてしまう。

そうして、この親世代のニーズにこたえているのが熊谷西高校など普通科の高校というわけである。

なぜ熊西のような亡霊のような学校がまだ存続しているのか不思議だったが、それは高校というものが生徒自身や社会のために存在しているわけではなく、団塊ジュニアである親世代の願望を反映した教育施設であるからだ。

熊西が10年後に見捨てられる理由

このように考えてくると、タイトルにもある「熊西が10年後に見捨てられる理由」も判明してくるだろう。

現在、この学校(をはじめとした全国の中偏差値帯の全日制普通科高校)がまだ命脈を保っているのはひとえに親世代の古い価値観である。その期待にこたえるかたちで昔ながらの教育を続けている。だが、親世代も次第に入れ替わっていく。その最大のチェンジのポイントが10年後に来る。

つまり、高校生の親世代が団塊ジュニアからその次の世代になってくる。

私が見るところ、いちばん大きな断絶があるのが現在の40歳あたりの年代である。38歳の私から見て、45歳以上の人間は「旧世代」という感覚がある。ベースとなる考え方や価値観が違うのだ。それが、40歳くらいになってくると急激に変化する。このあたりになると既存の価値観にとらわれず、新しいことにチャレンジしていくタイプの人が増えてくる。

いま40歳くらいの世代が高校生の親となってきたとき、今のような「国公立進学○人」「MARCHに○人」といった進学実績アピールは何の意味もなくなっていくだろう。

そもそも現在でも、大学進学を目標とするなら通信制高校に通ったり高卒認定を受けてあとは予備校で学習するのが最短ルートかつ合理的な選択なのだ。このことが次第に受け入れられるようになっていくはずだ。全日制の高校に通うことは足枷でしかなく、積極的な意味は何もないと理解されていくだろう。

さらに、今後は通信制高校や特色ある高校を出た人の方が社会で活躍していく可能性が高い。卒業生の質という面でも差が開いていく。昔ながらの偏差値教育でそこそこの大学を出ただけの人材は社会にもう居場所を見出せない。以前にも書いたが、現在AIが代替しつつあるのはそうした人々が従事している労働である。

熊谷西高校の終わり

今はまだ、熊谷西高校は親世代の古い価値観によってギリギリのところで生かされている。実質的にはもう存在価値はないのだが、親というスポンサーによって露命を繋いでいる恰好だ。

しかし、それもあと10年であろう。10年後、新しい生き方を模索しはじめた世代が親世代となることによって、既存の多くの高校はいよいよ選ばれなくなり、かつまた少子化の煽りを受け、順次、廃校となっていくだろう。

私が憎んできた熊谷西高校は、その典型例として、まっさきに潰れていくはずだ。そのときはできる限り早く校舎などを取り壊し、元の美しい麦畑に戻してほしい。