「失われた30年」という表現がすっかり一般に広まってきた。どうやら日本経済の衰退は共通了解となったようだ。先行きについてもほとんど悲観論しかない。

90年代にバブルが崩壊し、そこから現在2022年に至るまで、日本経済は停滞している。いや、「停滞」と言うのはまだマイルドな表現で、他の先進諸国と比べれば「衰退」といってもいいくらいだ。給料は上がらず、非正規雇用は増大し、さらには物価上昇まではじまった。

そんな様子を見て、ふと思った。この「失われた30年」を失わせたのはだれなのか、と。別に犯人探しをするわけではないが、世代論として考えてみると興味深いことがわかった。実は、戦後教育を受けた世代が社会の中心になったとたんに日本経済は失速しているのである。

高度経済成長を支えた戦前・戦中世代

これは今日見落とされがちな事実だが、実は戦後の高度経済成長を支えた世代は戦前・戦中に教育を受けている。

高度成長とは、1955年から1973年あたりの時期を指す。この時期、日本の経済は毎年10%以上の急成長を見せた。1960年、首相池田勇人が「所得倍増計画」を立て、目標の10年を待たずしてそれは達成された。10年足らずで給料が2倍。今日では想像できない事態だ。

さて、そんな奇跡のような成長を支えた労働者たちは、当然ながら戦後生まれの人間ではない。戦争で実際に戦っていた世代が大半だった。

1945年の終戦時、玉音放送を聴いていた20歳の日本兵はその後どうなったか? 実は、高度成長がはじまった1955年にはまだ30歳であり、その終わりぎわ、1973年でも48歳である。現役で会社員として働いているのである。退職するのはやっと1985年のバブル経済に差し掛かるあたりだ。ここでようやく60歳である。

つまり、「24時間働けますか」の精神で働いていたモーレツ社員は元日本兵であり、戦前・戦中の教育を受けた世代なのだ。

これはもっと上の世代になるが、たとえば小津安二郎「秋刀魚の味」の主人公も軍隊帰りの会社員である。帝国海軍の艦長だった男が引退間際の重役をやっている。下は元部下の男とバーで再開する有名なシーン。

小津安二郎「秋刀魚の味」より

「失われた30年」の中心は戦後教育世代

では、戦後に教育を受けた世代が活躍したのはいつか? たとえば1950年に生まれた人が30歳になるのが1980年である。1960年生まれがその十年後、1990年で30歳になる。いよいよバブルが崩壊し、日本経済が長い下り坂に差し掛かる頃だ。

つまり、「失われた30年」のあいだに社会の中心にあり、30代、40代という働き盛りだったのは完全に戦後の教育を受けた世代になる。

こうして見ると、少なくとも経済成長という観点からすれば、戦後の教育はすべて間違いだったのではないかとも思われてくる。90年代以降、とりわけバブル崩壊が明白となったその末期から先、日本にめぼしい産業は生まれていない。コンテンツの面ではアニメや漫画、ゲームといったものが生まれたが、アメリカのGAFAMに代表される新たな巨大企業は何一つ生まれなかった。

なぜ戦後教育がこれほどまずい結果を産んだのか、その要因は分からない。教養主義の衰退。それもあるだろう。あるいは地域を背負う、いい意味でのエリート意識の消失。それも大きいと思う。

国家という公(おおやけ)のために尽くす意識が日本を戦争へと導いた。その反省から、あまりに個人主義に傾いてしまったのかもしれない。おまけに大資本・大企業の存在感が大きくなりすぎ、個人の利害ばかり考える個人がみなその巨大システムの中でのポジション獲得競争になだれこんでいった——その浅ましい現象の末路が今日なのかもしれない。

とにもかくにも、客観的に見て戦後の教育がうまく行っていないことは明白だろう。

再び、熊谷西高校について

このような時代の流れを踏まえていくと、熊谷西高校という学校の性質ももう少し見えてくる。実は熊西は近隣の高校と比べると若い学校である。いくつか創立年を比べてみよう。

熊谷高校1895年
川越高校1899年
秩父高校1907年
熊谷女子高校1911年
本庄高校1922年
本庄第一高校1925年
本庄東高校1947年
熊谷西高校1975年
県北の主な進学校の創立年

このように、おおむね創立は戦前に遡る。そんな中で熊西はだいぶ遅れて創設された学校である。場所も、籠原駅という小さな駅からさらに徒歩でかなりかかる畑の真ん中だ。経済発展の最中にも注目されなかった場所が選ばれ、そこにポンと出現したわけである。いわば、その空間からしても、重厚な過去を背負っていない。

これは卒業生の中に見るべき人物がいないことからも明らかだ。卒業生のうち最年長は60歳を超えているはずだが、有力な文化人も学者も経営者も政治家も一人もいない。

日本人から教養主義や公の意識が消え去り、伝統も顧みられなくなり、個人個人が社会でのポジション獲得にばかり血道をあげるようになった時代、そのときに、その空気の只中で、熊谷西高校が生まれた。

熊西の実際の教育内容やホームページから読み取れる、何とも言えない軽薄さ、うすっぺらさ。それは確実に、戦後、さらには高度成長をも終えた日本の空気を反映したものなのだ。「進学校」というだけが唯一のアイデンティティとなってしまったのは、創立の時代背景からしても当然なのである。それ以上のものを何も背負っていないのだ。

さらに言えば、1975年生まれというのは人間で言うと氷河期世代に当たる。2022年現在で45歳だ。言うまでもなく、この世代は日本社会で冷遇されている。10代の頃には激しい受験競争にさらされ、にもかかわらず、就職時には不況で正社員になれない人も多かった。かといって、下の世代のように新しい価値観や発想を身につけることもできず、今日、激動の時代のはざまでジリジリとすりつぶされている。まさに、受難の世代である。

熊谷西高校という学校もまた、氷河期世代と同様の運命をたどっている。すでに無効となったシステムを前提として出発し、刷新できずに時代遅れの遺物のように畑の中に残り続けている。その姿はまるで、戦後教育の失敗を象徴する廃墟のように見える。

おわりに

戦前・戦中を美化するわけではないが、客観的に見て、教育の面ではかつての方が成功していた。それは、排出した人材、それによって実現した社会を見ればあきらかだ。第二次対戦の終戦後は教育が変わって平和が実現したじゃないかと言うかもしれないが、平和を維持した人々の中心は戦前・戦中に教育を受けた世代である。

私の卒業した熊谷西高校は戦前からの伝統を持たない。一言でいえば、軽薄な存在だ。そうして、根本的には高度成長期の価値観を前提とした時代遅れの教育を続けている。戦後の社会を外観する中で、そういった姿も浮き上がってきた。