2022年7月8日、安倍晋三元総理が選挙の応援演説中に狙撃され、亡くなった。大変痛ましい事件であり、心からご冥福をお祈りしたい。親しい人を理不尽に奪われた故人のご家族、親戚、友人らの心中もいかばかりかとお察しする。

この事件の背景として、犯人・山上徹也の母親が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の信者だったことが明らかになった。しかも、母親は旧統一教会に1億を超える献金をしていたのだ。山上の供述によれば、これが原因で家庭は崩壊し、本人の進路にも大きな影響が出たということだ。

統一教会といえば、かつては霊感商法や合同結婚式が話題となった、いわゆるカルト(悪質な新興宗教)である。7月末現在、メディアでは連日、この統一教会と自民党の国会議員を中心とした政治家との蜜月関係が報道されている。

さて、このような報道に触れ、さらにカルトについて以前に調べたことを思い出しているうちに、こんなことを思った。

「熊谷西高校はカルトにそっくりだ」と。

もしかしたら、熊谷西高校が持つ負の側面というのは、統一教会のようなカルトとまったく同じなのではないだろうか? 以下、具体的に3つの側面から見ていきたい。

1)公的権威への追従

これは「似ている」ではなく、両者のまったく同一の部分である。熊谷西高校も統一教会も、とにかく公的な権威をみずからの信頼性向上に利用している。

統一教会は安倍元総理をはじめとする自民党の大物議員をイベントに呼んだり、メッセージを依頼したりしていた。つまり、

「うちの教会はこのような偉い方々も応援してくれる、ちゃんとした団体なんですよ」

と言いたいわけだ。政治家を広告塔として、権威づけの材料として利用していたのである。

熊谷西高校もこれとまったく同じことをしている。熊西のホームページを見ると、公的機関の認証を使った権威づけのオンパレードだ。スーパーサイエンスハイスクール、教育委員会による指定、文部科学省への目配せなど。

「うちの学校はこのような公的機関も認めてくれている、ちゃんとした学校なんですよ」

というわけである。

さらに、国公立大学への進学に価値を置いている点も、権威への追従の一側面だろう。現実には、国公立大学もピンからキリまであり、偏差値50を下回る学校も少なくない。国公立というだけではレベルの高さも教育の質も何も担保されないのである。にもかかわらず、ほとんど無意味な「国公立への合格者数」を指標として用いている点がきわめて不自然だ。

2)禁欲主義とゆるい束縛

これは偏差値60前後の、いわゆる「自称進学校」全般に見られる現象かもしれないが、禁欲主義的な空気とゆるい束縛とがある。

第一志望への合格を至上命題とし、そのための邪魔になる遊びや男女交際はよくないものとしてなるべく排除しようとする。カルトの教義のように明文化されてはいないし徹底もされていないが、そういった禁欲主義的な空気は漂っている。

本来、10代後半には進学の問題を離れてさまざまな経験ができるよい時期である。それを犠牲にさせ、無数の可能性をすり潰す点は非常にカルト的だ。個人の自由と可能性を度外視し、組織の目的に従うよう誘導するのである。

3)脅迫と支配

これが本質的な、熊西とカルトの共通点である。

「学校に従順な姿勢でよく勉強し、偏差値の高い大学に入れ」。これが熊西の持つメッセージである。表立って言われなかったとしても、いわばこれは命令だ。

さらに、この命令にはこんな但し書きが付属する。

「もし勉強をせず、いい大学に入れなかったら、負け犬だ」と。

これもはっきりは言われないにしても、学校の全体的な構造や姿勢がこういうメッセージを発している。いわば、これは脅迫による支配だ。

もしこちらの命令に従わなかったらこんな悪い結果が待っているぞ、それでいいのか、という脅しである。これはカルトの「教義に従わなかったら地獄に落ちるぞ」というのと同じ構造になっている。

余談だが、この「支配」の構造は日本社会にいまや充満しており、だれもが窮屈さを感じている。それをフィクションとして描いたのが週刊少年ジャンプで連載していた「チェンソーマン」という漫画だ。

第1部が完結し、現在第2部が連載中

この漫画第一部の最後の敵は「支配の悪魔」である。彼女はマキマという美女の姿となって主人公デンジに近づき、その力をみずからのものにしようとする。そのために、あえてデンジに理想的な環境を与えてやるのだ。快適な部屋、食べ物、兄と妹のような家族、仕事と給料と同僚、ほのかな恋愛などなど。最後に、それらをすべて壊すために――。

熊谷西高校は「楽しい青春時代を送れる」などと言われている。これは事実かもしれない。しかし、それによって何を失っているのかはよく考えた方がいい。その楽しく快適な環境自体が「支配」のための手段なのだから

おわりに

今思えば、高校時代の私の不登校は熊谷西高校というカルトとの戦いだった。しかも、大変に分の悪い戦いだった。なにしろ、学校内に味方はゼロ、家族も学校と同じスタンス、本当に孤立無縁だったのだから。

おまけに当時はインターネットもほとんど普及していなかったので、情報もなかった。今のように、不登校に理解を示す知識人の意見も耳に入らなければ、同じ境遇の人間とコンタクトを取ることもできなかった。そんな中で書物と自分の思考だけでそこに違和感を覚え、不登校というかたちで戦いつつ、脱出を試みていたわけである。惜しくも、私はその戦いに敗れたわけだけれど……。

冒頭の話に戻れば、自民党は統一教会というカルトにかなり侵食されていた。与党政治家たちの態度が常にハラスメント的であったのも、その事実と無関係ではないだろう。カルト的な支配の論理は政治家たちをはじめ、この日本社会に広く深く浸透しているのだろう。

それは何も統一教会だけのせいではない。カルトが力を持つのは、私たちの心がカルト的な論理に適合してしまっているからだ。もっと言えば、それを求めてしまっているからだ。

熊谷西高校という学校も、そういった不健康な社会の土壌に根ざしている。だから熊西であり、それが熊西なのである。