インターネットの掲示板やQ&Aサイトを見ていると、たびたび目にするのがこういう意見。

  • 「不登校は甘えだ」
  • 「不登校は逃げてるだけだ」
  • 「自分だけ学校に行かないのはずるい」

不登校の人に対し、感情的な非難が投げつけられています。

この記事は、そんな「甘えだ」という批判にモヤモヤしている中学生・高校生に向けて書きました。きっと、この記事を読み終わるとき、そんな批判は一つも気にする必要がないとわかるでしょう。

「甘え」とは「人の好意をあてにすること」

まず「甘え」の意味を確認しておきましょう。辞書にはこうありました。

人の好意をあてにする気持ち。

出典:甘え(あまえ)の意味 – goo国語辞書

言い換えれば、「だれかが何とかしてくれるだろう」という態度ですね。

もう一つ、『「甘え」の構造』という本ではこう述べられているようです。

甘えとは、周りの人に好かれて依存できるようにしたいという、日本人特有の感情だと定義する。

出典:甘えの構造 – Wikipedia

やはり、「甘え」は周りの人がよくしてくれるのにべったり依存するような態度・考え方だと言えそうです。

では、不登校はそんな依存的な行動なのでしょうか? 私は、違うと思います。

「不登校は甘えだ」と批判する人の心理

私の考えでは、不登校は甘えではありません。むしろ逆の、自律的な態度です。

なぜそう言えるのか? これを説明するためには、まず「甘えだ」と批判する人の心理を想像してみる必要があります。

たぶん、不登校を甘えだという人の考えはこういったものです。

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学校にはほとんどの人が通っている。多少つらくても、苦しくても、がまんして行くべきなんだ。他の人が行ってるのに一人だけ行かないのは「不公平」だろ。

この「不公平」という部分がポイント。かれらがご立腹なのは、「不公平」だと感じているからに他なりません

推測ですが、かれら自身も学校など行きたくなかったのです。何かしら大変な思いをしたのです。古い学校教育に洗脳された親がいて、登校を強制されたのかもしれない。でも、がまんして通っていた(あるいは現在通っている)。だから、他の人が不登校をできてるのが許せないのです。

その心理は、たとえるならこんなものでしょう。


40人の奴隷がいて、重たい石を運ぶ仕事をやらされている。灼熱の太陽の下、汗だくになって、意味もわからず肉体労働をやらされて、「つらい」「疲れた」「倒れそう」と、ヘトヘトになっている。

そうしてもうぶっ倒れそうになっているとき、だれか一人がそこから逃げ出した。仕事を放り出し、シャワーを浴びて、クリームソーダを飲んでくつろいでいる!

で、それを見た他の奴隷が思う。「逃げやがったな、ずるいぞ!」と。


つまり、学校というのは奴隷たちが苦役に従事するような場所で、全員ががまんするものだと考えているのです、かれら批判者たちは。だから、かれらは不登校の人を、逃げた奴隷みたいに考え、「不公平だ」と、「甘えてる」と、感情的に非難するのです。

学校は無理してまで行く場所ではない

自由かどうかはあなた次第

学校は、つらいけどがまんして通うもの。通わなきゃいけない場所。これが一部の人の考え方ですが、間違っています。前提からして違う。

そもそも学校に通うことは義務ではないし、無理をしてまで行く場所ではありません。小学校も中学校も高校もそうです。

参考:義務教育の本当の意味とは? 「二重の誤解」を解きほぐす

かれらは不登校を不公平だと思っている。しかし、そんなことはありません。だれしもが、そこから抜け出す権利を持っているのです。実際、抜け出すことはできるのです。

先ほど、肉体労働をさせられる奴隷のたとえを出しましたが、最初からその労働は義務ではなかったということです。いつでも逃げていい、逃げる権利のあるものだった——ただ、勝手に「逃げてはいけない」と思い込んでいただけ

だれだって逃げる権利がある。だったら、不公平も何もない。逃げなかった人が悪いのです。そういう決断をしたのです、自分で。

逆に、不登校をするのは学校が義務でも強制でもないことを正しく認識し、周りに流されず、「行かない」という決断をしたということです。本人は「行けない」という意識だったとしても、無意識では「行かない」という選択をしている。

とすると、これは他人の好意に依存する「甘え」でも何でもありません。

最初から、学校へ行くのは義務でも強制でもないんですから、そこから抜け出したとて、当然のことをしたまで。「甘えだ」なんて批判は的外れなのですよ。

学校に行って得られるもの、失うもの

さて、ここでこんな声が聞こえてきそうです。

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たしかに、「義務教育」は子供が学校へ行かなきゃいけないって意味じゃない。

だけど、学校は勉強をしたり他の人とのコミュニケーションを学んだりする大切な場所だ。そこには行かないのはやっぱりよくない。

学校ではたくさん学ぶことがある。これは一理あります。

しかし、不登校の人はすでに、人間関係や勉強の遅れなどで相当に疲れ、傷ついています。学ぶどころか、教室に入るだけで心を削られているような状態なのです。

それでも学校へ行くなんてのは、風邪を引いてるときにジョギングをするようなものです。鍛えられるどころか、どんどんボロボロになるでしょう。

しかも、学校へ行くとデメリットもある。

よく、「学校では他人とのコミュニケーションが学べる」と言いますが、そのコミュニケーションの主な相手はだれでしょうか? 同い年の、同じ地域の子ではありませんか。学年が違っても、せいぜい1つ2つ違うだけの子ばかりでしょう。

そんな同世代ばかりの不自然な集団で過ごすことなんて、大人になったらまずありません。社会へ出れば、20歳も30歳も違う、出身地も違う人と接するのが普通です。

ましてや、同じメンバーと毎日何時間も同じ部屋で過ごすことなんて、それが1年とか2年続くことなんて、社会に出たらもうありません。学校で学べる人間関係のスキルは、学校でしか役に立たないゴミスキルなのですよ。

あとあと何の役にも立たないコミュニケーション・スキルを身につけるために学校へ無理して通う。その結果、どうなるか? 個性を切り取られ、学校という同質的な集団に適応できるだけの、つまらない人間になっていくのです。ああ、恐ろしい。

我慢と努力は違うんです

また、中にはこんな意見の人もいます。

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学校は何かを学ぶ場所じゃない。イヤなこと、つらいことがあっても、「我慢する力」を身につける場所なんだ。

つべこべ言わず、卒業して社会に出るまで我慢しろ。

これは最悪の考え方。学校を我慢大会かのように捉え、「そういうものなんだ」と受け入れてしまっている。ザ・奴隷的思考です。

ただし、こういう発想がある程度正しかった時期もあります。それは、日本が高度経済成長期だった時代。あの頃は、我慢してでも何でも、一つの会社に勤め続けることがトクになる時代でした。

いい高校・いい大学に行き、大企業に就職する。終身雇用で定年まで勤める。それがほぼすべての日本人にとって幸せに生きるための「正解」だった。

ところが、そんな時代はもう終わりました。転職は当たり前、終身雇用も崩壊、大企業も容赦なくリストラをする時代。一つの会社に勤めることはもう「正解」ではありません。

こうなると、その予備段階である学校も、我慢して通うことに意味がない。というか、有害でしかない。

「イヤなことでも我慢して続けること」は、しばしば「がんばること、努力すること」と同じように捉えられますが、実はまったく違います。我慢は我慢でしかなく、努力とは違う。

たとえば、あなたが腕立て伏せをしてて、だんだんキツくなり、それでも50回やったとする。これは努力です。あとで筋肉がつくから、ポジティブな意味がある。しかし、腕をつねられてるのを我慢したとして、何になりますか? 皮膚が内出血し、赤くなるだけです。こっちはただの我慢。無意味なのです。

つらいのに我慢して学校へ通う。これほど無駄なことはありません。

だから、無理して学校へ行く必要はない

不登校は「甘え」ではない。なぜなら、そもそも我慢して通う義務なんてないから。行く意味がないなら行かなければいいだけですから、「甘え」もクソもないのですよ。

私は高校時代、微妙に不登校になって、それでも無理して通っていました。ギリギリで卒業もしました。しかし、あの我慢には何の意味もなかった。ただただ神経をすり減らし、時間を無駄にしただけでした。貴重な時間を。

これを読んだあなたは、ぜひ、無理して登校することをやめてください。「行かなきゃいけない」「行くべき」は思い込みです。小中学生なら教育支援センターやフリースクールがあるし、高校生なら定時制や通信制へ転入・編入すればいい。勉強の遅れは通信教材などで取り戻せます。自分の「居場所」も、学外の集まりやインターネットで見つけられる。

だから、もう、無理してまで学校へは行かなくていいのです。