昔から、不登校は「学校に行けない(can not)」というネガティブな捉え方をされてきました。「登校拒否」と言われていた頃から、これは続いています。

しかし、今、明るい不登校という新しい教育スタイルが注目されているんです。

明るい不登校は従来の不登校とどう違うのでしょう? その実践には何が必要なのでしょう? ここにはきっと、新しい教育へのヒントが隠されています。

明るい不登校は学校とそれ以外とのハイブリッドな学び

明るい不登校とはどんなあり方なのか? その特徴を3点で示してみました。

  • 登校を義務だと捉えない
  • 家庭での学びを大切にする
  • 学校側の理解を得る

つまり、学校と家庭、双方が納得のうえで「学校に行かない」選択をするということ

このような学びのスタイルを実践しているのが秋田県五城目町の松浦さん一家です。

明るい不登校を実践する松浦さん親子

NPO法人「cobon」の代表を務める松浦真さんと妻・智子さん、そして小3の息子さんと小6の娘さんの4人家族。この取材動画では息子さんの方がどのような不登校を実践しているのかが紹介されています。

息子さんは「年間100日以上」学校を欠席しているので、完全に「不登校」の範囲に含まれます。にもかかわらず、本人もご両親もとことんポジティブです。

「学校での学びもあるし、学校外で主体的に学ぶこともある。どちらでも学ぶ。ハイブリッドする。そもそもスクーリングとは「自分自身で学び」を作るという意味なので、こういうスクーリングが増えたらいいなと思っています。」

と、父親である真さんはおっしゃっています。

この動画の中では息子さんが学校で過ごす様子、学校を休んで図書館で勉強したり、父親の仕事に同行して旅をする様子が紹介されており、まさに「ハイブリッド」なかたちで学んでいる様子が見て取れます。

そこには不登校の暗いイメージ、ギスギスとした親子の軋轢などはまったく見られません。

「暗い不登校」と何が違うのか?

松浦さんの家の不登校が「明るい不登校」なら、では逆に、「暗い不登校」はどんなあり方なのでしょうか? 図で対比してみました。

暗い不登校と明るい不登校
暗い不登校と明るい不登校の対比イメージ

暗い不登校(図の左)の特徴としては……

  • 行かなきゃという義務感があるけど行けない
  • 「行かない」という自己決定がない
  • 親や学校との間に軋轢や摩擦がある
  • 自己嫌悪と自己否定に陥っている

短く言えば、義務感と無力感のあいだにはさまれ、葛藤している状態。それが「暗い不登校」と言えるでしょう。

私自身も高校生の頃はまさにそうで、「学校に行け」という親、「来い」という学校、それから「行きたくない」という自分とで板挟みになっていました。周囲から否定され、自分で「行かない」という決定も下せない、本当に苦しい状態でした。

そうなるとポジティブに何かを学ぶことなんてできませんし、自己肯定感や自信もどんどん低下していきます。葛藤するだけで何ヶ月もの時間が過ぎていき、「人生が奪われていく」感覚でした。

このような「暗い不登校」には何の生産性もありません。

その一方、「明るい不登校」にはこれからの社会を生き抜いていくポジティブな可能性が秘められています。

明るい不登校は「脱・学校依存」である

学校の見方を変えてみよう

もう少し突っ込んで考えてみますと、こう言えるでしょう。

「明るい不登校」は脱・学校依存である、と。

これまで、子供の「学び」と言えば学校がメインであり、ほとんどすべてでした。学校に毎日欠かさず行くことが必須だったのです。

しかし、学校教育が時代に合わなくなり、旧態依然とした教育スタイルから抜け出せないなかでは、学校は学びのための一つのツールとして捉え直す必要があります。いわば、学校は義務ではなく、家庭と子供が「みずから選択するもの」だと、思考を切り替える必要があります。

「明るい不登校」は、教育の主軸を学校から家庭へ取り戻す、そんな学びのスタイルの変革なのです。

明るい不登校への反論にこたえる

ところで、「明るい不登校」を実践し、親も積極的に学校を休ませることには反発や反論もありそうです。実はさきほどの動画のコメント欄にもアンチコメントが溢れていました。代表的な反論にこたえてみましょう。

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反論1)学校に行かなかったら学力で遅れを取るのではないか?

たしかに、ただ学校を休んで家でスマホやゲームだけしていたら勉強面で遅れてしまいます。そのような不登校は「明るい」とか「暗い」とか関係なく、非常に問題です。

子供が不登校になったとき、ただ「待つ」という対応をする親御さんがいますが、いかがなものでしょうか。待っているあいだに勉強はどんどん遅れてしまいます。そんな状態で「明るく」不登校をしていたら、親として失格だと思います。

しかし、家庭で保護者がしっかり教育をしたり、塾や家庭教師、通信教材で勉強をさせれば何も問題はありません。というより、学校の非効率な集団授業よりも、個人の能力・適性に合わせた教育ツールを活用する方がむしろ学力アップが期待できるかもしれません

不登校になる原因の3割は「勉強についていけない」せい。なので、あえて学校を休んでしっかり家庭その他で学力を身に着けさせるのは子供のためでもあります。

反論2)みんなが登校してるのに休ませるのは甘えでは?

このような反応をする方はまだまだ多いようです。

  • 「他の子はイヤでも登校してるのに一人だけ休ませるのは甘え」
  • 「学校に毎日通えないと大人になってから困る」
  • 「一般常識や協調性が身につかない」

まず、甘えとかずるいという意見を見ると、私は江戸時代の五人組を思い出してしまいます。農民を相互に監視させて、お上の都合よく管理する制度ですね。

日本社会は今でもイレギュラーな人がいるとみんなで叩きたがる性質が強い。しかし、本来は個人個人が自律的に考えて行動すればそれでいいはずです。「みんなが行ってるから行かなきゃだめ」ということはないのです。

また、学校に行かないと将来的に社会に適応できなくなる、協調性が身につかないという意見ですが、これは時代錯誤もいいところです。

むしろ、これからは個人が自律的にライフスタイルを創る時代。好きなものや得意なもの、居心地のいい場所や気の合う人を、アラカルトのように選んでいく時代です。いやな場所に無理して通う能力なんて無用の長物なのです。

先日、経団連会長が「終身雇用を続けるのはもう難しい」とハッキリ宣言しました。もはや、一つの組織に属していればいい時代は完全に終結したのです。がまんして学校に通う能力を身につけても、将来的にいいことは何ひとつありません。

反論3)学校は一箇所でいろんなことを学べる効率的な場。それを軽視してはいけないのでは?

これはその通りだと思います。学校はプロである教師からまんべんなく勉強を教えてもらえて、体育や美術や家庭科もあって、文化祭や体育祭もある。給食も出る。

なので、子供が楽しく通えているならそれでいいと思います。「学校へ行きたい!」という子を引き止める必要はありません。それはたまたま、その子が学校という場に合っていた、そこに楽しさや居心地よさを感じたということですから。

しかし、学校が苦痛であったり、勉強についていけなかったり、逆に簡単すぎたり、ましていじめを受けていたりするなら、「無理してまで行く必要はない」ということです。

学びは個々の家庭で作る時代

少し前まで、子供の教育は学校にほとんど丸投げされていました。学習塾や習い事もありますが、それらは付随的なものという位置付けだったと思います。

しかし、今や学校も選択肢のうちの一つ。学校だけにこだわる必要はありません。

上でご紹介した動画の中で、松浦さんの息子さんが通う学校の校長先生はこうおっしゃっていました。

「(ただのズル休みではなく)目的を持って休まれています。正解を固定しない。そういう柔軟性が必要です」

学校長という立場上、なかなか言いにくいことだったかもしれませんが、すばらしいですね。

全員がとにかく学校に行かなければいけないという窮屈な世の中が、少しずつ変わろうとしています。学びのスタイルは各家庭が創り出すものになってきている。「明るい不登校」はその一つの兆しなのだと思います。